Amazon Prime Videoにて、全話視聴が可能となっていたアニメ「バビロン」を、この年末年始を利用して、一気に視聴しました。
「バビロン」は、サスペンス仕立てとなっているアニメ作品で、全12話でちょうど良い長さでした。
ネットなどで考察や感想を読んでいると、かなり賛否両論が分かれている作品という印象でした。
僕自身はかなり楽しめたので、内容についての感想や考察を書いていこうと思います。
記事内容としては、基本的に肯定的な意見が多くなると思います。
当然、ネタバレありの記事となっておりますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
ちなみに小説版は読んでいません。
作品全体の感想
アニメ「バビロン」は、犯人を追う刑事モノのサスペンスと、政治・思想・哲学を絡めた内容で、視聴者にも考えることを促す内容だと感じました。
僕はこういった自殺や善悪に関するような難しい問題について、真正面から取り組んだ作品が好きなので、楽しむことができました。
受身で楽しめるエンターテインメントを見たいという気分の時には、オススメできない作品です。
扱う問題が重いため、序盤はリアリティ溢れる刑事モノの要領で、視聴者を引っ張っていきます。
「新域」に絡む不審な死に関係する謎の女・曲世愛の登場と、その聴取のシーン以降、一気に面白くなっていきました。
さらに、斎開化による自殺法の発表により物語が加速し、どのような展開を見せるのだろうと、先を知りたくなる展開が続きました。
7話の斎開化の拉致作戦とその失敗は、序盤のクライマックスであり、これ以前とこれ以降では、作品の雰囲気が異なっていきます。
後半では、ストーリーの舞台がアメリカに移りました。
各国首脳たちが、自殺についての是非や善悪とは何かという問題に時間を割き、じっくりと考えさせる展開が続きます。
第7話以前のような「刑事モノ」が最後まで続くと期待していた視聴者にとっては、少し退屈に感じられてしまったのかもしれません。
本作を刑事モノとして捉えた場合、ラストは曲世愛の逮捕か死亡でしか、納得が得られることはないでしょう。
しかし、本作のラストはそうなってはいません。
このことからも「バビロン」が単純な刑事モノではないということが言えると思います。
最後のエンディングテーマ後のCパートでも不穏な終わり方を見せ、その部分についても考察が必要だと感じられました。
考察
本作では、様々な問題が提起されます。
特に序盤から「自殺法」は、考えに取り組みやすい問題として登場します。
ただ僕は、自殺の是非に関しては考える価値のあるテーマだとは思いますが、これが本作のメインテーマだとは思っていません。
途中で語られていたような「トロッコ問題」や「臓器くじ」の是非を問う内容でも、曲世愛が取り組もうと思う動機さえあれば、成立していたでしょう。
比較的、多くの人が取っつきやすく、生死が関わるテーマとして「自殺」という題材が選ばれたに過ぎないと思っています。
本作は「バビロン」というタイトルが名づけられています。
タイトルの「バビロン」が示しているのは、登場人物の曲世愛であるということは、間違いないでしょう。
本作のタイトルが「バビロン」であることの意味や、作品中でも語られた「善と悪」についても、以下で考えていこうと思います。
本作で描かれている善と悪について
アニメ「バビロン」では、善とは何か、悪とは何かということについて、議論がなされています。
作品終盤で、アレキサンダー大統領や正崎が出した答えは「善とは続くこと、悪とは終わること」というものです。
二人がそれぞれ別々に出した答えについては、曲世も「よくできました」と発言していることから、それなりに曲世の意に沿うものだったのだと思います。
しかし、この答えは間違っているか、不完全な答えであると明示されています。
善が続くことで、悪が終わることであるなら、曲世愛が生き続けることもまた善であり、終わること(死ぬこと)が悪ということになるからです。
曲世を殺害することが正義だと信じて行動してきた正崎でしたが、最後の最後に自分も曲世と同じだと気付いたのではないでしょうか。
善も悪もあやふやなものであり、どちらが良いか悪いかといった区別は無意味なのではと思います。
正崎善と曲世愛は、当初は相反する存在のように描かれていますが、本当はコインの裏表であり、ある意味同じ存在として描かれています。
確かに序盤、正崎は部下や友人を死に追いやった曲世を悪と断じて追っていました。
しかし、ラストではその曲世を殺害しようとし(終わらせようとし)、自らが悪と断ずることを行おうとします。
このように、善と悪は時と場合や状況によって、簡単に裏返ってしまいます。
「続く」「終わる」という言葉は、何が続くのか、何が終わるのかということによって、全く異なる意味となってしまいます。
この点においては、以下の考察記事でも同じような見解の方がいると感じたので、参考までにリンクを張らせていただきます。
しかし本作は、「善と悪はどちらも表裏一体で規定できない」というような、よくある答に落ち着いているわけではないと思います。 そこから一歩進めた、別の視点を提示していると感じました。
では、本作で描かれている「悪」とは何なのでしょうか。
逆説的ではありますが、曲世が行っていることこそが、「悪」であるのだと思います。
曲世が行っていることは、人々に「死が素晴らしいもの」であると唆すことです。
つまり「答えを知ること」です。
本作で描かれている悪とは「善悪を知ること」なのではと思います。
アレキサンダー大統領が屋上に向かう際に、旧約聖書にある善悪の知識の木の実について独白していますが、まさにその内容です。
アダムとイヴは、善悪の木の実を食べたことにより、善悪を知ってしまいました。
そして聖書によれば、善悪を知る行為は悪いことだと描かれています。
善悪を知り、そのために人類は様々な苦しみや罪を負うことになってしまいます。
人類に果実が美味しいということを伝えた蛇の行為、つまり何が善悪かを教えるという行為も、当然悪であると描かれているのだと思います.
アレキサンダー大統領のイメージ内でも、リンゴを勧めた蛇=曲世として描かれています。
聖書における蛇は、バビロンは違う存在ですが、人を唆して堕落させる女という象徴として「バビロン」というタイトルが付けられているのではないかと思います。
本作においては、曲世が人々に与えた答えは「死は甘美なもの」というものでした。
それは、曲世によって答えを教えられなければ、知らなかったことです。
知ってしまえば、それを試してみたくなってしまう、だからこそ、それを知ることは悪いことだったということです。
正崎たちが止められなかった、ホスピスにお見舞いに来ていた少女も、「偉い人が言っていた」という理由で、自殺と言う選択をしてしまいます。
大統領という偉い人が自殺をしてしまっていたなら、こうした少女が世界中に出現していたかもしれません。
色々な人の考察を読み漁っていた際、自分と同じような考えに至った人もいたため、少し嬉しくなりました。
その記事について参考までにリンクを張ります。
正崎が言っていた「正しいとは何なのかを考え続け、答えに辿りついても考えることをやめないこと」という言葉は、悪の反対という意味において、善であると思います。
曲世が教える「死は素晴らしいもの」という答えに飛びつかず、本当にそうなのだろうかと自分で考え続けること、それこそが善なのではないでしょうか。
そういう意味では、答えを出して歩みを止めてしまった正崎や大統領は、ラストのシーンにおいては、正しくないと言えそうです。
曲世愛について
曲世愛は、いくつかの特殊能力を持っています。
この特殊能力は、舞台装置のようなもので、なぜこのようなことが可能なのかというメカニズムについては、あまり気にしなくて良いと思います。
「虐殺器官」におけるジョン・ポールの「虐殺の文法」のように、具体的なメカニズムは読者には明かされませんが、そういう結果を生むものとして捉えておけば、バビロンのテーマを追う上で問題にはならないと思います。
本作をあくまで刑事モノとして捉えるのであれば、リアリティさに欠けるという批判もあり得ると思います。
曲世自身については、作中でもいくつか語られているシーンがあります。
正崎が曲世の叔父に話を聞きに行った際と、アレキサンダー大統領が自殺者と会話した際です。
正崎が新幹線で見ている曲世のカルテに、腹部に印が付いていることから、過去に妊娠や出産に関する経験があるのだと推測されます。
このことから、大統領と対話した自殺志望者が語った身の上は、おそらく曲世愛自身のことだと推測されます。
自殺志望者本人の本当の身の上だったとしても、曲世の身の上と、そう変わらないものであるはずです。
曲世自身のことであると考えた上で、第2話の聴取シーンを見直してみると、腑に落ちることがいくつかあります。
正崎に対して行った質問の中には、避妊の是非や、子供を殺すことは悪いことかどうかという質問がありました。
子供を産み育てることは称賛されるべきことだといった回答や、色々な価値観の違いは認められるべきだ、という回答を聞き、曲世は満足そうな表情を浮かべていました。
これは、善悪とは何かという宿題を与えるのに、正崎がふさわしい人間かどうかを値踏みしていたのだと思います。
そのときに曲世が「人を殺すことは一番悪いこと、最悪です」言った際の、正崎の表情が印象に残っています。
正崎は、曲世の考えが自分と同じだったことに、驚きを覚えたのではないでしょうか。
(余談ですが、第2話の聴取シーンと第7話の陽麻殺害シーンの演出は素晴らしかったです。
聴取は動きが無い静的なシーンですが、曲世という女に蟻地獄のように引き込まれていく雰囲気が良く出ています。
第7話は、凄惨でグロテスクなシーンと、日常の一コマがリンクさせられ、アップダウンの激しい演出で強烈な印象を残します)
曲世愛を語る上で他にも外せないのは、7話で陽麻をバラバラにしながら正崎と話す内容です。
以下の内容は、セリフの一部を抜粋したものです。
「善いことが好きな人と、悪いことが好きな人、違いはそれだけ、たったそれだけ」
「どうしてこんなことをしているのか、正崎さんにはそれを考えてほしい。
そして理解してほしいの。
悪人がやることだからって思わないでほしいんです。
意味なんてない、まともな人間には到底理解できないって思わないでほしいんです。
悪には、意味があるわ。」
「大丈夫、きっと解る。 理解できないなんてことは絶対にありません。
だって私達、同じ人間なんですもの。
正崎さん、あなたにも解るから。
きっと、絶対に解るから!」(『バビロン 第7話 「最悪」』より)
ショッキングなシーンだけに、彼女の発言内容はなかなか頭に入ってきませんが、ここは彼女を知るうえで重要なヒントであると思います。
正崎と曲世の違いは、良いことが好きか悪いことが好きか、たったそれだけだと言っています。
良いことに囲まれた育った正崎が出した結論と、(悪いことに囲まれて育ったであろう)曲世が出した答えが同じものになるかどうか、曲世は確認しているのではないかと思います。
曲世のお眼鏡にかなった正崎に対しては、答えを教えることはせずに、考えるよう促しているのでしょう。
考えさせた結果、最終的に最悪な行為である殺人をさせることにより、善悪の違いに自体に、大した意味はないと見せつけているのではないでしょうか。
曲世自身、自分の中の善悪に関する結論に対して、本当に正しいかどうか、確認し続けているのかもしれません。
もしそうだとするなら、やはり正崎と曲世は同じだということになります。
また、曲世はたびたびゲームの話をしており、自らの動機についてはっきりと言及しています。
「魔王に支配された世界で、勇者はほんの数人の仲間と共に、時には一人きりで魔王の軍勢に立ち向かう」。
「誰も助けてくれなくても、誰も分かってくれなくても、ただ人間の幸せのために、世界を救う勇者になりたい」。
曲世はこのように話しています。
曲世が昔、自分の子を失ったとするのなら、その子にとって死は素晴らしいものだったと考えないと、精神が正常を保てなかったのかもしれません。
その考えに従い、最終的には自殺法を施行を掲げる斎に取り入り、死が素晴らしいものであると広めていきたかったのかもしれません。
誰もわかってくれなくても、自分が考える人間の幸せのために、これからも善悪の伝道を続けていくのでしょう。
「世界に対しての曲がった(歪んだ)愛」という意味で、曲世愛の性質をよく表していると思います。
エンディングについて
さて、エンディングの描写についても、いくつか議論があるようなので書いていこうと思います。
Bパートで終了していても問題ない内容なだけに、これ以上語るのは野暮という感じがしないでもありません。
最後の銃声は、おそらく正崎がアメリカ側の誰かによって撃たれた音だと思います。
再視聴して確認しましたが、正崎が大統領を撃った際の銃声とは、明らかに異なる銃声です。
曲世は銃を持っていませんし、スタッフロール後のCパートで、曲世は生きていることが明らかになっています。
銃声が違うことから、正崎が自殺したということは否定されますし、曲世が撃ったということもないでしょう。
撃たれたとするなら当然、正崎であると考えるのが自然でしょう。
ヘリに乗ったマスコミのカメラからは、ギリギリ屋内にいる曲世が見えていなかったため、はたから見れば、正崎が大統領を殺して殺人犯だとみなされても無理はありません。
アメリカが独自に正崎を射殺したか、事前に曲世が操っていた誰かに、引き金を引かせたのかもしれません。
さて、Cパートでは曲世は正崎の息子と接触を図っています。
接触した理由はやはり正崎と同じように、善悪を問うためでしょう。
正崎を父親に持つ子供なのですから、曲世もまた、納得のいく答えを出せると見込まれたのかもしれません。
これからも曲世は、人類に善悪とは何かを問い続け、唆し、同じようなことを繰り返していくのでしょう。
自殺法の是非
ここから先は、「バビロン」のメインテーマと直接は関係しないと思っていますが、「自殺法」の是非について、私見を書いていこうと思います。
アニメとはあまり関係ない内容なので、興味のない人は読み飛ばしてもらった方が良いかもしれません。
結論から言うと、僕は自殺法については、条件付きで賛成という立場です。
学生時代のゼミの教授の専門領域が、人間の終末期に関わるものだったため、僕自身も自殺に関わる研究テーマを選んでいました。
教授の受け売りですが、自殺には、確信的に選択する自殺と、衝動的に選択する自殺の2種類があると思います。
前者は、例えば作家の三島由紀夫のように、思想的にそれが正しいと確信して、自殺という選択するものです。
後者は、健康上の問題、いじめ、過度のストレスなどの、外部的な要因で、自殺以外の選択肢が見えにくくなっている状態のものです。
僕は前者の自殺については、考え抜いた上での選択であれば、それは本人の自由だと思います。
現実に運用する問題としては、自殺を望む人間に、行政が手助けをすることの是非はありますが、そこはとりあえず置いておきます。
ただし、後者の自殺であれば、安易に認めるべきではないと思っています。
後者の理由で自殺する人は、本当に自殺したくてしているわけではなく、そうせざるを得ないような状況に置かれているものだと考えられるからです。
不治の病による健康上の理由で自殺を選ぶならば、それは認められるべきかもしれません。
ここで選ぶ自殺は「生き方の選択としての自殺」というよりは、「死に方の選択としての自殺」という終末期の自己決定権の問題と言えるからです。
(この点については、安楽死の話とも関わってくるので、これ以上は深く語らないことにします)
しかし、いじめ・パワハラによるストレス・経済上の理由などによる自殺は、それらすべての問題がクリアされてもなお、自殺を選ぶのかという点を考慮すべきだと思っています。
実際、自殺を選ぶ前段階では、「自殺前症候群」と呼ばれるうつ病と同じような状態になっており、自由な選択ができるような精神状態ではない人がほとんどだと言われています。
そうであれば、まずそういった外部要因を排除できる社会してから自殺を認めて欲しいと思います。
まとめると、自殺法についての僕の意見は、以下の通りです。
・熟慮の上、確信的に選択している自殺については、認めても良い(不治の病も含めて良い)
・いじめ、過労、ストレス、経済的な問題に起因する衝動的な自殺が疑われるケースについては、行政が自殺幇助を実施する前に、自殺前症候群の診断を行い、外部要因の不存在を確認した上でなら、認めても良い
おわりに
アニメ「バビロン」の感想や考察を色々と書きました。
とりあえず出したこれらの考察が、正解かどうかはわかりません。
たとえ自分で考え続けて出した答えだとしても、それが本当に正しいのかどうか問い続けるのが、善いことなのかもしれません。
本作「バビロン」は、作中で語られた疑問について、ハッキリと描写していないことも多いです。
しかしそれは、答えは与えられるものではなく、自分で考え続けることによって得られるものなのだということなのかもしれません。
2020年に視聴した多くのアニメでも、自分の中ではかなり楽しむことができたと思います。
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